日本最大の獣害として有名な「三毛別ヒグマ事件」。
その8年後。
三毛別から南に30kmという場所で、
もう一つのヒグマ襲撃が起こります。
「石狩沼田幌新事件」。
三毛別に次ぐ被害を出した獣害事件です。
現在も加害熊の毛皮が残っており、
他のヒグマ事件以上にリアル感が強いでしょう。
長く、北の大地で繰り返されてきた開拓民とヒグマの死闘。
石狩沼田幌新事件も、村民総出で戦ったのです。
その恐怖の3日間を体感したいと思います。
祭りの夜に現れた人食いヒグマ
北海道沼田町。
旭川にも近く、米どころと知られる町です。
市街地から北へ数km。
「ほたるの里」で知られる、ホロピリ湖近くの地区にある幌新ダム。
その水底に、石狩沼田幌新事件の舞台となった場所があります。
1923年(大正12年)。
事件は真夏の深夜に始まりました。
8月21日。
恵比島地区で太子講の祭りが催されました。
聖徳太子のお祭です
普段はつらい開拓の仕事をしている人々。
年に一度の大祭は、いろいろな興行が楽しめる夜とあって、近隣から人が続々と参加。
その中には幌新地区の一団もいました。
第一夜:最初の襲撃
祭りが引けた午後11時半。
幌新は恵比島から北東に歩いて1時間以上かかる。
祭りの興奮も冷めやらぬ、ろくな灯りもない帰路です。
今は拓けている沼田町も、大正時代はまだ原生林が大半でした。
ヒグマ出没もよくあった。
一行の人数は5~20人と記録にあります。
集団行動は身を守る手段でもあったのです。
最後尾にいたのが19歳の林謙三郎。
小用を足して、一行から50mほど離れていました。
その背後を、暗闇からいきなり現れた一頭のヒグマが襲います。
「ヒグマだ!」
体力のあった謙三郎は負傷するも、なんとか脱出。
着物はぼろぼろに破れていました。
「ヒグマが出たぞ!」
仲間に追いつき、報告をします。
クマの恐ろしさを知る一行は、
すぐにその場から逃げようとしたでしょう。
ところが、ヒグマはすでに集団の前方に先回りしていたのです。
第一夜:殺戮の始まり
立ちふさがる巨大な黒い影。
先頭には15歳の村田幸次郎がいました。
祭りの高揚感もあって、
子供らしく最前列を歩いていたのかもしれません。
だとしたら不運です。
ヒグマの太い腕が降り降ろされ、
幸次郎は一撃で動かなくなります。
ほぼ即死です。
ヒグマはさらに近くにいた幸次郎の兄、18歳の与四郎も倒す。
とんでもない早業ですよ。
与四郎はまだ息がありましたが、
ヒグマに連れ去られ生きたまま土に埋められます。
保存食を確保し、最初の犠牲者幸次郎の内臓を貪り始めたのです。
一行には救い出す術がありません。
深夜の山道で襲撃され、パニックになって逃げるだけです。
第一夜:家の中にまで侵入!
300m先には木造平屋の持地家がありました。
一行はそこに避難。
囲炉裏の火を大きくして、ヒグマの侵入を防ごうとします。
30分後、ヒグマが持地家の周りをうろつき始めます。
その口元は血に染まり、牙からは内臓も垂れ下がっている。
さっきまで元気に歩いていた幸次郎の内臓。
避難した中には与四郎、幸次郎の両親、三太郎(54)とウメ(56)もいました。
息子の無残な姿に、どんな思いだったんでしょうか。
だが、今はヒグマの撃退をしなくてはならない。
ヒグマに座布団やザルを投げ、なんとか追い払おうとします。
しかし、ヒグマにそんなものは効きません。
玄関から侵入しようとするヒグマ。
二人の犠牲に飽き足らず、執拗に幌新の一行を追い詰める気です。
三太郎が戸を押さえますが、ヒグマに戸ごと吹き飛ばされました。
すぐに起き上がり、スコップで殴り掛かりますが、
クマのパワーの前に叩き伏せられて深手を負うことに。
ヒグマは火を踏み消し、ついに家内へ侵入。
隅で怯えていたウメを咥えあげる。
「息子二人に、妻までも」
三太郎も傷を顧みず抵抗しますが、ヒグマはウメを連れて出てゆく。
ウメの悲鳴とともに、闇に消えてゆく巨大グマ。
ウメが念仏を唱えるのが聞こえました。
人の力が通じぬ野生に対して、もう神頼みしかない。
その念仏もやがて消えた……。
残された者たちは恐怖と喪失感と中で、
ひとつの不安も抱えていました。
「人の味を知ったクマはまた人を襲う」
あのヒグマを斃さねばなりません。
増える犠牲者~ヒグマの射殺
村田家の3人が犠牲になった翌22日の朝。
ヒグマが近くにいないことを知った一同は、
凶行を目の当たりにします。
弟の幸次郎は貪り食われ、
近くの藪で、下半身をすっかり食われたウメの遺体を発見。
埋められた兄の与四郎はまだ息があり、
病院に送られますが、数日後に亡くなりました。
小さな集落が騒然となったのは言うまでもありません。
さらに翌23日。
猟師や、アイヌの狩人数人が応援にやってきます。
長江政太郎(56)はヒグマに憤慨。
「そんな悪いクマは俺が仕留めてやる!」
と単身で山へ行くも、銃声が聞こえただけで戻ってきませんでした。
もう事態は、集落だけの手に負えなくなっていたのです。
ヒグマの死
事件から3日目の8月24日。
ようやく地元軍人、消防団などからなる300人規模の部隊が到着。
さらに近隣地区からも60歳未満の男が駆り出される。
ヒグマ一頭相手に、ほとんど戦争と思うかもしれません。
しかし、山中はヒグマがどこから出てくるかわからない。
こういった事件では中隊レベルの人数が動くものなのです。
開拓民の意地のようなものもあります。
北海道は全国各地から人が集まった、パッチワークのような土地。
なので、地区によって対抗意識が強い。
一集落の問題はその土地で解決しなければ、
他所に笑われるみたいなところがある。
さて、山に向かった討伐隊。
すぐに加害熊から攻撃を受けます。
最後尾にいた上野由松(57)に一撃を加え、撲殺。
折笠徳治も襲われ、重傷を負いました。
凶獣の雄叫びが響き渡る。
そこに一人が発砲。
騒ぎを聞きつけた隊員も集まり、一斉射撃を浴びせる。
さすがにヒグマも倒されました。
その近くには、行方知れずだった長江政太郎の頭だけの遺体があったそうです。
石狩沼田幌新事件は終わりました。
後日亡くなった村田与四郎を含め、死者5人。
重傷者3人。
死者7人(胎児を含む)、重傷者3人の三毛別ヒグマ事件に劣らぬ惨劇です。
後日、判明したこともあります。
石狩沼田幌新事件の教訓
加害熊は体長2m、体重200kgのオス。
ヒグマとしては標準サイズです。
死後の解剖で、
胃から人骨がザル一杯分、未消化の人の指が出てきました。
毛皮は保存され、現在は沼田町郷土資料館に展示されています。
なぜ人を襲ったのか?
ヒグマが襲撃した理由もわかっています。
お祭の夜、幌新の一行を襲った場所の近くに、
このヒグマは馬の死体を保存していたのです。
たまたまそれを食べていたところに集団が来た。
「俺の馬を横取りする気だな」
と、一行を襲って排除したのです。
討伐隊への急襲も、おそらく長江政太郎を食べている最中だったからでしょう。
勘違いで襲われるなんてたまったもんじゃありません。
しかし、ヒグマの食料に対する執着心は感じられるでしょう。
食い物が絡めば、本能的に人を襲う。
それは大正時代も現在も変わりません。
ヒグマ事件の多くは「食欲」が原因です。
動物とは距離が必要だ!
「野生動物に餌を与えるな」
これは世界共通のルールになっています。
餌をもらった動物は、人間に近づいてくるからです。
そして人を襲ったり、病気を感染すこともある。
また、車に寄ってきて事故に遭う動物もいます。
餌をあげることは優しさではありません。
動物にも自分にも危険な行為です。
離れて見守るのが一番いいと思う。
特に北海道は動物が多く、餌をやる観光客も多い。
石狩沼田幌新事件でもわかるように、
ヒグマは一撃で人を殺せる動物。
北海道の観光資源としてヒグマ推ししていることもあり、ヒグマの危険が忘れられている気がします。
事実、ヒグマに近づきすぎる観光客が問題にもなっている。
獣害事件は、動物の怖さを知る大事な記憶といえるでしょう。
だから語り継がれるのかもしれません。
まとめ
石狩沼田幌新事件は日本で2番目に大きい獣害事件。
死者5人、重傷者3人という大参事でした。
最初に襲われた林謙三郎氏は、
事件後に山に入ることは一度もなかったそうです。
恐怖の記憶にずっと支配されていたんでしょうね。
事件は足掛け4日で終結しましたが、その間開拓民たちとヒグマの闘いは犠牲者を出しながら、熾烈を極めたのです。
開拓民の苦労と勇気が感じられます。
僕のような道産子は、そのおかげで住めている。
感謝しかありません。
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