自然界は弱肉強食。
殺るか殺られるかのハードボイルドな世界ですが、人間様だけは襲われて食われる心配がない。
そんな安心感を蹴散らしてしまうのが、時に起こる獣害事件です。
野生動物の歯牙の前に、人間が「ただの餌」になってしまうという恐怖!
「万物の霊長」という人間のアイデンティティーや拠り所が、容易く破壊されるようでとにかく怖ろしいですよね。
有名な獣害事件のひとつに「チャンパーワットの人食いトラ事件」というのがあります。
人食いトラとして最大の犠牲者を出したとギネスブックにも載っています。
どんな事件だったのか、改めて検証してみたいと思います。
チャンパーワットの人食いトラ事件とは?
もうすぐ20世紀という頃。
ネパールのジャングルに入った人たちが、正体不明の襲撃者に襲われて死亡する事件が立て続けに起こっていました。
「悪魔の仕業ではないか……」
「神罰かもしれない……」
人々がそう思ったのも無理はありません。
犠牲者があまりに多く、神的な力の持ち主でもなければこんな惨殺を続けてできると信じられなかったのでしょう。
悪魔のような人食いトラに軍も出動
しばらくして、それがトラの仕業だとわかります。
「トラなら退治できる」
村人はハンターに依頼。
ところが、トラ討伐はうまくいきません。
この頃には、人食いトラの犠牲者は200人ほどに登っていました。
200人ですよ!
悪魔の所業といってもいいでしょう。
ついにネパール政府までが動き、国軍が投入されることに。
軍もこの人食いトラに苦戦し、結局ネパールから追い出しただけ。
トラは国境を超えてインドのクマーウーン(クマオン)地方チャンパーワットに入り、また人食いを繰り返すのです。
インドで自由奔放に人を襲う!
人食いトラはクマーウーンでさらに大胆な狩りをします。
ネパールのジャングルでは草むらに潜み、通りがかった人間に奇襲をかける方法。
もともとトラはこういう狩りをします
しかし、クマーウーンでは昼間から活発に動き、その姿を見せつけて住民を威嚇。
その活動範囲は20km。
ざっくり測って、東京23区より一回り小さいくらいの範囲ですね。
それだけの広範囲に昼夜を問わず出没し、現地の人々はろくに眠れぬ夜が4年から5年も続いたといいます。
トラは「ティグレス」と名付けられ、まるでクマーウーンの暴君でもあるように怖れられます。
犠牲者はこちらでも200人を超え、獣害というより災害のレベルです。
しかし、人間だって負けていません。
これまで多くのハンターが仕留められなかった人食いトラにも最期が訪れました。
ついに射殺!手負いの雌トラだった!
1907年。
有名なハンターとして名を馳せていたアイルランド系イギリス人ジム・コルベットが当地にやってきます。
この時点でティグレスに殺された人はクマーウーンで234人。
コルベットが来た直後にも2人命を落としました。
最後の犠牲者は16歳の少女。
彼女はトラにやられ、死体を持っていかれてしまいます。
コルベットはその現場から血と足跡を辿り、やがて少女のちぎれた足と人食いトラを発見します。
そして射殺。
それはメスのベンガルトラで、体長は約2.5m。
地域住民が300人も集まって虎の死を確認したそうです。
右側の上下の牙が折れており、二つの銃による古傷(ヤマアラシの針の傷ともいわれる)もあって、野生動物より狩りが楽な人間を標的にしたと推測されています。
犠牲者はネパールとインドで合計436人で、この数字が最大のトラ被害としてギネスブックに記載されているのですが、実数は定かではありません。
ネパールの200人も少なく見積もってという感じなので、もっと多いだろうと考えていい。
これは数十年前からアフリカのブルンジで人食いを続ける、「ギュスターブ」と呼ばれるナイルワニの犠牲者300人以上と並ぶ、史上最悪の獣害事件です。
ギュスターブは現在生死不明で、生きていればティグレスを超えるかもしれませんが、この人食いトラ事件が歴史に残ることは間違いないでしょう。
もう少し事件をドラマチックに書きたかったのですが、これほどの獣害なのに記録が少ないのです。
それでも事件の概要は掴めたでしょう。
いくつか疑問もあるので、次項で考えてみます。
事件の疑問。人を狙った事情と長期間逃げられた理由
400人以上を食い殺したチャンパーワットの人食いトラ・ティグレス。
数年間もハンターに撃たれず、これだけ犠牲もあったのには理由があると思うのです。
牙はいつ欠損したのか?
コルベットに射殺され、牙が欠損していたために人間を襲ったのはわかりました。
トラは通常人間を怖がっていて、襲うことはまずありません。
あるとすれば、ティグレスのように牙を折ったか、高齢でのろまな人間しか狙えない場合です。
ティグレスはネパールで人食いを始めたとき、すでに牙を失っていたのでしょうか?
確かなことは不明ですが、牙の欠損はネパール軍との戦いによるものと考えられています。
つまり、ティグレスは元気なときから人間を襲ったことになります。
この理由は当時のインド、ネパールの状況にあるでしょう。
この地域はイギリスに植民地化されて、急激な森林伐採が行われていました。
トラは住処に侵入する人間と接触する機会が増えていたのです。
チャンパーワットの事件を人災と捉える人もいます。
しかし、これだけ人間が動員されたのに、トラ一匹退治できず、被害を拡大させたのも不思議です。
ハンター、軍人の質が悪かった?
トラは天性のハンターです。
ティグレスも人間を襲うことを繰り返し、人間の行動や考え方を学んでいったと思われます。
逆に、ハンターや軍人はどうだったんでしょう?
実はハンターといってもレベルはそれぞれです。
この地域はトラをはじめ、野生生物が多い。
クマーウーンではトラ事件と同時期、ヒョウの獣害もありました。
このヒョウを射殺したのもジム・コルベットです
銃を持っている人はたくさんいたでしょう。
しかし、ほとんどは猛獣を撃退する機会もなく、ろくに手入れもしてなかったと思う。
人間が集団でいれば、襲ってくる動物もいませんし。
軍人は多少練度は高かったでしょうが、イギリスの植民地で現地の軍がそこまで強かったとも思えません。
規律、戦略、情報収集力だって当てになりませんよ。
獣害の起こっている地域では、全体が独特の空気に包まれます。
人食いの猛獣と同じ空間にいるということは、想像以上に精神がすり減ることでしょう。
その場で冷静に引き金を引けるのは、強靭な精神と、経験に裏打ちされた自信のある人間だけ。
銃の携帯者がいることで満足し、何人も殺されるまで本腰を入れなかったことが被害を拡大させたともいえます。
みんな死んでから事件解決する名探偵みたいですね
やはり本物の猛獣には、本物のハンターしか太刀打ちできないのではないでしょうか?
事実、伝説的な獣害事件をいろいろ見てみると、解決したのは組織ではなく、一人の優秀なハンターということが多いのです。
それらのハンターは動物を憎むというより、好敵手としてある種の共感を動物に持つ傾向がある。
コルベットもハンターでありながら動物保護に尽力し、チャンパーワットの西100kmほどに創設されたジム・コルベット国立公園は、希少になったベンガルトラの保護区となっているそうです。
まとめ
ティグレスは食った人間の数などから、ほぼ人間を専門に餌にしていたらしいです。
人の味を覚えた獣は人食いを繰り返すといいますが、ティグレスもそうだったのでしょう。
それには森林の縮小で獲物も減り、人間で腹を満たすしかなかった事情もあった。
トラも犠牲者といえるかもしれません。
とはいえ、人間も400人やられたのですから同情の余地はないんですが。
獣害事件は凄惨ですが、人の心にグッとくる何かがありますよね。
チャンパーワットの人食いトラも、語り継がれてゆくのだと思います。
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