1980年、オーストラリアのキャンプ場で、赤ちゃんが姿を消しました。
生後2ヶ月のアザリア・チェンバレン。
本来なら新聞の片隅に記事が載り、すぐに大衆には忘れ去られる事件だったでしょう。
しかし、この事件はその後数年、二転三転。
日本未公開ですが、メリル・ストリープ主演で映画化もされています。
人里離れたキャンプ場で、いったい何が起こったのか?
渦中になったのはアザリアの家族、そしてディンゴです。
アザリア・チェンバレン事件とは?
オーストラリア・ノーザンテリトリー州。
世界的な名所エアーズロックを擁する、ウルル=カタ・ジュタ国立公園。
観光地ですから、行ったことがある人もいるでしょう。
アボリジニはエアーズロックを「ウルル」と呼んでいます
1980年8月16日、公園のキャンプ場にチェンバレン一家が訪れました。
マイケルとリンディ夫婦、6歳と4歳のエイダン、リーガン兄弟、そして6月11日に生まれたばかりの末娘アザリア。
1,000kmも離れたマウント・アイザ市の自宅から、3日かけたドライブです。
その翌17日の夜、事件は起こったのです。
ディンゴが赤ん坊をさらった!
8時頃のこと。
家族は、キャンプ場で知り合ったロー夫妻とバーベキューをしていました。
リンディは20mほど離れたテントに、リーガンとアザリアを寝かしつけ、空腹を訴えるエイデンのために車に缶詰を取りに行きます。
その際、すぐ戻るつもりでテントのジッパーは開いたまま。
マイケルやロー夫妻が泣き声に気づき、教えられたリンディがテントに駆け寄ると……。
テントから出てくるディンゴが!
しかも、なにかを咥えているように見える。
ディンゴはオーストラリアの野犬。
野犬といってもオオカミに近く、群れで家畜を襲う猛獣と怖れられています。
リンディがディンゴを追い払い、テントに入るとアザリアがいない。
「赤ちゃんがディンゴにさらわれたわ!」
キャンプ場はパニック。
公園の警備隊も加わり、300人が捜索。
しかし、アザリアは見つからず。
「ディンゴに食われたか……食われていないとしても、荒野の寒い夜を2ヶ月の赤ん坊が耐えられるわけもない」
翌朝には、チェンバレン家は「気の毒な家族」とメディアに報道されます。
マイケルとリンディの会見映像は、海外にも流された。
娘を失った両親。
大衆の同情が集まる……と思いきや。
世論は意外な方向へ向かいました。
「ディンゴ襲撃を装ったリンディの犯行ではないか」というのです。
母親に向けられた疑惑
マイケルとリンディは気丈でした。
「アザリアの件は“神の意志”」と受け入れ、インタビューではむしろ「饒舌」でもあった。
それは「大衆が求める被害者像」……
「悲しみに打ちひし枯れて言葉も出ない」
「怒りで神を詰る」
とかけ離れたもの。
これには理由があります。
母親犯人説の根拠
マイケルは『セブンズデーアドベンチスト』というプロテスタント宗派の牧師でした。
もちろんリンディも信者です。
ちょっとわかりにくいですが、「エホバの証人」に近いと思えばいい。
聖書を絶対的に信じ、菜食主義で、酒も煙草もコーヒーもOUT。
アドベンチストの思想から作られたのが「シリアル」です
説法で話すことには慣れていたし、運命を「神の意志」と捉える性質でもあった。
これが一般大衆には奇異に映ったのでしょう。
ディンゴは危険な動物です。
でも、「人を襲う」とは考えられていませんでした。
さらに、一週間後に発見されたアザリアのジャンプスーツ。
ツナギになったベビー服から、中身の赤ん坊だけディンゴが取り出せるものなのか。
服はなぜか折りたたまれて捨てられており、女性サイズの血の手形の痕跡もあった。
リンディに疑惑の目が向けられます。
「リンディが車内でアザリアを殺害した」(車内で血痕が見つかった)
「大きなカメラケースに遺体を隠した」(ケースをどかそうとするのをマイケルが嫌がった)
「後にディンゴに連れ去られたと芝居した」(咥えられたアザリアを見たのがリンディだけ)
「捜索騒ぎでゴタゴタしている間に遺体を処分した」
「ジャンプスーツも後日夫妻が放置したもの」
犯人はリンディ?マイケルはその補佐をした?
動機についても、やや特殊な宗教から推測されます。
マスコミ報道はまるで魔女狩り
- アザリアには障害があり、セブンズデーアドベンチストでは障害者を生贄にする風習がある。
- アザリアという名には「生贄」の意味がある。
- チェンバレン夫妻は集団自殺したアメリカのカルト『人民寺院』と関係があった。
- アザリアによく黒い服を着せていた。(乳児に着せることはあまりない)
といった具合。
他にも、検視した医師が「アザリアに虐待の痕が見られる」と言った。
夫妻が「“アザリアを殺したい”と言っているのを近所の人が聞いた」。
リンディのファッションが「悲しむ母親」に見えない……など。
テレビ、新聞、雑誌が書き立てた。
そこに著名人、芸能人などが乗っかり、「両親が真犯人」のムーブを作り上げてしまったのです。
アザリアは「ディンゴ・ベビー」と呼ばれ、チェンバレン夫妻はカメラに追われることになった。
画像は悪いけれど、当時の映像が多くあります。
32年後の事件の結末
上記の情報はほとんど嘘。
アザリアの本当の意味は「神に恵まれた」。
セブンズデーアドベンチストの生贄もない。
折りたたまれたジャンプスーツも発見者がそうしたもので、アザリアに障害や虐待があった事実もなし。
これは、よくわからない宗教一派への偏見が生んだのでしょう。
完全なフェイクニュースです。
でも、大衆は「面白い嘘」を歓迎しました。
世論は裁判の陪審員にも影響を与えます。
最初は無罪だったリンディですが、二回目は却下され、3年間服役します。
1988年には無罪確定しましたが、疑惑は長く続く。
公式にリンディは冤罪であり、アザリアがディンゴの犠牲になったと認められるのは2012年。
なんと32年も、チェンバレン一家はあらぬ疑いに苦しめられたのです。
アザリア事件のその後
アザリアは今も消息不明です。
ディンゴが平らげたか、どこかに放置されたか。
どちらにしても、生きてはいないでしょう。
彼女の死は、なにをもたらしたのでしょうか?
見直されたディンゴの恐怖
ディンゴの認識は変わっています。
「人を襲わない」とされていたディンゴの被害が、次々と出てきた。
2001年には9歳の男の子が、ディンゴに襲われて死亡。
2012年の7月には、少女がキャンプ中寝袋ごとディンゴに引きずられる事件、同年11月には人を何度も襲ったディンゴが駆除されます。
2019年4月、1歳の乳児が襲われ、父親が気づいて一命をとりとめた。
咬まれた、引っかかれたは枚挙のいとまがありません。
ディンゴが思ったより器用なこともわかりました。
ジャンプスーツから赤ん坊だけ持ってゆくくらいはできるらしい。
猛犬くらいのイメージだったディンゴが、
疑いのない凶獣であることを、改めて知らしめた事件だったのです。
メディアの正義はどこへ?
アザリア・チェンバレン事件は、マスメディアの悪徳が目に余るものでした。
偏見に満ちたセンセーショナリズム。
プライバシーを無視した報道合戦。
嘘を並べた事件検証。
煽情的なバッシング。
大衆に迎合して夫妻を責めた著名人たち。
冤罪を下した司法は夫妻に約1億円の賠償をしていますが、メディアは一切責任を取っていません。
むしろ、この件には口を閉ざしています。
「報道の自由」をかざした暴力と言わざるを得ません。
そして、現在のマスコミを見て、アザリア事件の反省が活かされているとは僕には思えないのです。
アザリアを餌食にしたディンゴ、リンディを餌食にしたマスコミ。
「どっちがケダモノなのかな?」
つい考えてしまいます。
まとめ
アザリア・チェンバレン事件いかがでしたか?
本当はもう少し複雑なのですが、紙幅の関係でだいぶ端折ったことを了承ください。
日本ではあまり馴染みのない事件です。
しかし、マスコミの無責任や猛獣への誤解など、参考にできる部分も多々あると思います。
事件後、マイケルとリンディは離婚。
エイダンとリーガン兄弟も、いじめに苦しんだそうです。
最大級の冤罪事件といえるでしょう。
ある学者はこう言っています。
「アザリア・チェンバレン事件と同じようなことはまた起きるだろう」と。
一番のケダモノは大衆なのかもしれませんね。
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