『百匹目の猿現象』シンクロニシティの奇跡は嘘?本当?

猿の画像 その他

「君の想いが世界を変える!」

安っぽいお涙頂戴映画のキャッチコピーみたい。

そんな展開が今の時代はウケるのでしょう。

たった一人の小さな行動に、多くの人がインスパイアされるような。

「感動しましたぁ!」と付け合わせみたいな評価を得るパターン。

現実ではまずお目にかかりません。

生き物の世界では、そんなことが起こるようです。

「百匹目の猿現象」。

初めの一匹の真似を百匹がすれば、それは群れ全体に共有され、なんと遠くの猿にも伝わるというのです。

猿だけじゃありません。

それは人間にも起きる!

僕らは誰しもどこかで繋がり、情報のやりとりをしているのかも。

でも、「百匹目の猿現象」って本当なんだろうか?

心理学のシンクロニシティ(共時性)と合わせて解説します。

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『百匹目の猿現象』とは?

まず、百匹目の猿現象について説明します。

難しい話じゃありません。

とりあえず「動物の雑学」くらいの軽い気持ちで読んでもらえればいいです。

日本の小さな島に暮らす猿たちの物語です。

それは一匹の猿の大発見から起こった

宮崎県串間市の沖に浮かぶ幸島(こうじま)。

周囲3.5kmの小島には、野生のニホンザルが棲んでいます。

離島の猿は珍しく、戦後間もなく研究対象となり、サツマイモで餌付けされました。

幸島の猿は「イモを海水で洗って食べる」ことで有名。

「猿にも文化がある」と学者を驚かせたスゴイ猿なのです。

百匹目の猿の主人公は、最初にイモを洗う食べ方を発見したメスの猿。

名前も「イモ」とつけられました

この一手間加える大発見が、やがて群れを巻き込んでゆくわけです。

イモが芋洗いを始めたのは昭和28年(1953年)。

このとき1歳半の若猿。

島の猿社会にまったくなかった行動でした。

他の猿も「なにやっとんじゃ?」って感じ。

でも、洗えば土が落ちるし、海水ならほんのり塩味もつく。

イモの行動を真似る猿も、ぽつぽつと増えていきました。

真似たのは若い猿がほとんど。

この新しい食べ方を、柔軟な若猿はすんなり受け入れた。

一方、大人猿は真似ない。

「ワシらにはワシらの食い方があるのぢゃ!」

「最近の若いもんは!」

なんだか人間社会でも見られる、世代差のあるムーブメントです。

文化は空間を超えて伝播する?

さて、イモが芋洗いを始めて10年ほど経った頃。

昭和37年(1962年)。

芋洗いは群れの7割の猿に浸透していました。

その数が「閾値(100は便宜上の数字で、「ある数」ということ)」に達したとき。

不思議なことが起こります。

その日の夕方、芋洗いが群れ全体に広まっていたのです。

それだけではありません。

なんと、遠く離れた猿の群れまでが芋洗いを始めたというのです。

この結果から、イギリスの生物学者ライアル・ワトソンは仮説を立てます。

1.「イモが始めたイモ洗いが」
2.「徐々に賛同者を増やし」
3.「その数が閾値(境界線)を超えると」
4.「行動が群れ全体に広まり」
5.「テレパシーのように離れた他者へも受け継がれる」

これが「百匹目の猿現象」。

99匹(境界線の一歩手前)までは起こらなかったことが、
それを超えた瞬間に空間を超えて共鳴し、広まってゆく。

なんともスゴイ説です。

群れ全体まではわかるとしても、離れた場所にも発生するなんて。

離れた群れの芋洗いは、ただの偶然じゃないのか。

見ず知らずの他者にまで伝わるとしたら、
僕らはすべての人間と関わっていることになる。

共鳴はよくある話だった!

しかし、古代文明などは離れた地域で同時発生している。

偶然では都合が良すぎる気もしませんか?

もしも、その時代の分断されていた人間が、精神レベルで同じものを共有していたとすれば。

同時発生も説明がつきます。

・誰かのことを考えていたら、その人から連絡があった。

・飼い犬が、飼い主の帰宅するタイミングに玄関で待っている。

あなたにも経験ないですか?

偶然といえばそれまでですが、「無意識下で示し合わせがあった」と考えることもできる。

これらはシンクロニシティ共時性などと呼ばれます。

動物は種族を越え、心が繋がっているのかもしれません。

シンクロニシティの例とされるものに、アメリカの教会で起こった奇蹟があります。

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神に救われた聖歌隊

祈りの画像

1950年3月1日の7時25分。

青年がネブラスカ州の教会に到着しました。

彼は聖歌隊のメンバーで、7時30からの練習に参加する予定だったのです。

本当は7時20分に集合する決まり。

たまたまその日は体長が悪く、遅れてしまったんですね。

青年が入口に立った瞬間――。

教会が爆発。

どうやらガス漏れがあり、それに引火したらしい。

偶然遅刻したために、爆風で軽傷を負っただけで済んだ青年。

しかし、気持ちは沈みます。

聖歌隊の仲間や牧師が、7時20分にはもう教会にいて、爆発に巻き込まれたはず。

聖歌隊の結成から2年、15人のメンバーはこれまで誰一人遅刻などしたこともなく、毎回時間通りに集まっていたのだから。

ところが、そのとき教会はなぜか無人でした。

あり得ない偶然が重なった!

実はその日、全員が遅刻していたのです。

「車のエンジンがかからなくて」

「算数の宿題を全部済ませたくて」

「アイロンかけに時間を食って」

「たまたま寝坊して」

「ラジオが面白くて」

それぞれが、他愛のない理由で、その日だけ爆発時にはいなかった。

15人がたまたま、その日に限って遅刻。

なんという偶然の一致でしょう!

「神様がみんなをお救いくださった!」

神の奇蹟といわれるのは当然です。

この事例は、今も「共時性」の証明として語られています。

ちょっとデキすぎな気もするし、教会の威厳を高めるための創作みたいだと、心の小汚い僕は思ってしまうのですが、こうした偶然は「集団的無意識」で説明がつきます。

魂は深いところで集合体になっているという考え。

無数のモバイルが、巨大サーバーと別々に繋がっている感じでしょうか。

それぞれが独立しているようで、
巨大サーバーに当たる無意識部分で情報が共有されている。

偶然ではなく、無意識のうちに「今日は遅れろ」と意思統一されていたのでは。

百匹目の猿現象もそれならあり得る。

……といいたいところですが、実は疑惑もあるんですよ。

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百匹目の猿に裏付けはない!

猿の画像

百匹目の猿は、幸島の猿の観察記録から導き出された仮説です。

一人の小さな変化が、群れ中に広がり、その「想い?」が遠くの群れにまで伝わる。

感動的じゃないですか!

「君は一人じゃない~♪」と歌いたくなる。

とりあえず歌詞にこれを入れとけばヒットする風潮あるよね

でも、記録は無慈悲に反論します。

イモが芋洗いを始め、真似する猿が増えた。

真似する猿は若猿が多く、老猿は少ない。

ここまでは事実。

記録でもはっきり確認できます。

しかし、芋洗い猿が群れの100%になった事実がない。

「ある日突然100%になった」は提唱したライアル・ワトソンの想像にすぎないのです。

また、遠方の群れに芋洗いが伝わったという話。

芋を洗う猿は各地で見られるのですが、幸島の猿との関連は証明できない。

これも、ワトソンが「関連しているに違いない」と思っただけ。

百匹目の猿現象は、希望的観測の上に成り立っているのです。

つまり、百匹目の猿はどうも疑わしい。

老猿が寿命を迎えれば、自然に若猿が主流となり芋洗い猿の割合は上がるもの。

サツマイモで餌付けされる猿が増えたことで、芋洗いがいくつかの群れで起こったとすれば、同時期に始まったのも理解できます。

人は「百匹目の猿」を信じたい

「集団的無意識」にしても、立証はほぼ不可能。

「虫の知らせ」など、たしかに不思議な繋がりを感じることはありますが、現時点では偶然というしかありません。

「想いはきっと届く」

「思い続ければ夢は叶う」

「みんな誰かと繋がっている」

とてもいい考え方だとは思います。

誰だってそう信じたいですよね?

だから、そんな展開のドラマや映画や小説が受ける。

そりゃミュージシャンも馬鹿の一つ覚えみたいに「一人じゃないよ」と歌うわけです。

そんな世の中で「百匹目の猿現象」ももてはやされ、なんとなく事実とされてしまった。

心地のいい仮説だったんでしょう。

もちろん、嘘と決めつける確証もありません。

集団的無意識には、まだわからないことが多いんです。

「やっぱり想いは届くのだ!」

そう信じるほうが、いい人生を送れそうな気もします。

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まとめ

一匹の猿の芋洗いが、群れに広まってゆく。

その数が境界を越えると、無関係の猿にも伝わる。

「百匹目の猿現象」は素敵な仮説です。

それはアメリカの教会で起こったような奇蹟を生む「集団的無意識」の実存の証明かもしれません。

そう信じたくもなります。

遠くの誰かとも繋がっている。

今はSNSでそれも可能になりました。

それでも人は人が恋しいのでしょう。

「“人”という字はお互い支え合って……」というのは、なかなか奥深い話ですな。

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