虫を銃殺!ネズミを弁護!笑ってはいけない動物裁判

裁判道具の画像 その他

自由を「誰にでも与えられる権利」と思っていませんか?

そうではありません。

自由は「法を守る人に与えられる」のです。

だから「司法」があり、違法した人は収監されて自由を奪われる。

これが人の世。

自由気ままな動物に、法は適用されません。

ところが、動物も裁判にかけられたことがある。

記録にあるだけでも100件以上!

どんな罪で? 弁護士は付くの? どんな判決が出たの?

コントのようで大真面目な『動物裁判』。

教科書では学べない歴史なんです。

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中世ヨーロッパの動物裁判

江戸時代に施行された「生類憐みの令」

蚊も叩いてはいけないという、やりすぎな動物愛護法。

「昔の人はアホだなぁ」と、授業中感じた人もいるでしょう。

その頃、ヨーロッパでは動物を裁判にかけていました。

どんな裁判があったのか?

1386年には、フランスで豚が赤ん坊を蹴り殺して絞首刑。

ただの屠殺という気もするが……。

1624年は、ドイツで「ニワトリが悪魔の卵を産む」罪で告訴される。

伝説の怪物コカトリスを産むという疑惑らしい。

鶏卵をヘビかヒキガエルが温めると生まれるといわれています

被告となった動物は、牛や馬などの家畜、犬がよく見られます。

人間と共住し、蹴ったり咬んだりのトラブルが多いからと思われます。

もうひとつ、被告になりがちなのが害虫でした。

虫だって重い処分に

1120年、ブドウの栽培者が畑を荒らす毛虫を訴えました。

判決は「破門」

永久追放ですね。

破門はキリスト教においてもっとも重い処分です

毛虫がその判決に従ったかどうかは不明ですが。

17世紀にも、南京虫(トコジラミ)が銃殺刑に処されています。

「痒みで人を苦しめた」罪。

吸血性の南京虫の立場になれば、「業務上過失」か「緊急避難」か、意見が分かれるところ。

「生きるためにしかたなかった」と南京虫は弁明したかっただろうに。

というか、1cmにも満たない虫なんて踏み潰せばいいのに、なぜ銃殺刑に?

どこからツッコンでいいのやら。

そんな裁判が、有罪になったものだけで12~18世紀に142件の記録がある。

中には、罪を免れた動物もいます。

減刑されたネズミ

16世紀、フランスの農民はネズミが悩みの種でした。

穀物を食い荒らす。

黒死病(ペスト)の時代でもあったし、とにかく駆除してもらいたい。

「訴えてやる!」とネズミを提訴したのです。

さっそく裁判所はネズミに出頭を命じます。

もちろんネズミが来るわけない。

出頭命令に従わなければ有罪が決定します。

しかし、ネズミの弁護人が「異議あり!」。

「出頭は数千数万のネズミが対象となるが、全ネズミに通告できない」

「穀物を食べたネズミと、食べていないネズミを断定できない」

「裁判所までの道のりは、小さなネズミにとって遠すぎ、途中でネコに襲われる危険もあるのだから、出頭に応じない点は情状酌量の余地がある」

ほとんど屁理屈ですね

この弁論に、判事も理解を示す。

えぇ~!

面倒臭かったとしか思えない寛大な判決で、「退去命令」で一件落着。

当然ですが、ネズミが退去したとは思えません。

ネズミ取りの画像

1510年は、モグラが農業被害を起こす罪に問われました。

これも「モグラは害虫も食べる」という弁護が認められ、追い出すだけの判決。

親子モグラと妊娠中のメスモグラには執行猶予まで与えられます。

おフザケのようで、一応は人権?への配慮もあったようです。

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動物裁判の意味は?

生類憐みの令は悪法とされますが、福祉政策の一面もありました。。

法令は人間も憐みの対象です。

捨て子や間引きが減り、働けなくなった高齢者も手厚く扱われた。

無駄な動物への迫害も抑えられ、「世界初の動物愛護法」と見直されているのです。

では、動物裁判にどんな理由があったのか?

教会のパフォーマンス?

これはキリスト教に理由があります。

キリスト教では
「罪を犯したものは、生者でも死者でも、動物でも植物でも、無機物でも、裁かれなければならない」
と考えます。

公平な考えではある。

でも、おそらく「人に害をなすものには悪魔が宿っている」という概念に因るものでしょう。

それは神や教会にとっての脅威だから、法に照らして裁くべきだと。

中世ヨーロッパでは「教会=法」。

教会の下に、万物が平等に裁かれるパフォーマンスと見ることもできそうです。

動物も神に作られたのだから、教会に従って当然。

そんな驕りがあったことも否定できませんが。

「魔女狩り」のような負の歴史も作った教会絶対主義の一部と見ることはできるでしょう。

動物裁判が教える「人間とは?」

事実、教会の力が弱まる近代になると、動物裁判は消えます。

ただ、平等裁判で法治の意識は浸透させたと思います。

「動物のようには好き勝手できない」と人々が知った。

法は人間に課せられるもの。

動物裁判のような歴史は、人と動物の境界線がはっきりしない時代のシステムです。

ある意味「法の適用」が、人とケダモノの分かれ目。

自由でないことが、人間の定義なのかもしれません。

本能のままに生きたいとは思う。

でも、人である限りそれはできない。

人間ってちょっと面倒臭い生き物ですね。

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まとめ

動物が裁判にかけられる。

なんとも不思議な光景だったでしょう。

しかし、当時は真剣そのもの。

司法に曖昧は許されない。

検事は「害獣は悪魔だ!」と指弾し、弁護人は「動物だもの」と擁護。

法の足枷がない動物も「なんだこれは?」だったはず。

つくづく、人は法を盲信する動物と感じます。

そういえば、ブラックジャックに「人間が動物を裁く権利があるのか」って台詞がありましたね。

トリビア的なネタですが、考えさせられる話ではないでしょうか?

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